ことばを聞く

現実に絶望しかけていた時、
その現実すら、虚構たることを、
見ている己の目すら、
虚構たりうるし、現実でもあるのだということを、
他人が定義するそれも、
それぞれに虚構であり、現実であるのだということを、
それをどのように使い、
どのように解釈し、
どう帰結させるかということも、
すべては見、聞き、考えた、己が導き出すことによって、
そこにリアルが存在するのだと。
そして、
社会とメディアと、他者(家族、友人も含め)とは、
絶対に、同じ認識を持てることは起こり得ないのだということを、
教えてくださったのは、いとうせいこうその人であります。


出会ったきっかけはすでに記憶の彼方だ。
よく立ち読みしていた雑誌に載っていた短いエッセイだったと思うのだが。
中学生だった私の、氏に対する認識は、
ラップができるコメディアン、であった。
既に内容すら記憶にないそのエッセイから、
このひとの書くものを、読んでみたい、
いや・・・読まねばならない、と思っていた矢先、
ノーライフキング」が発表された。

ノーライフキング

ノーライフキング

当時月の小遣いが500円であった自分にとって、
ハードカバーの小説を買うことは、かなりハードルが高かったにもかかわらず、
何故か、手にしなければいけない、と、
思い詰めた焦燥感でいたことを、不思議と覚えている。


ああ、私がいる。
そして、世界とは、こういったものなのだ。
読後感は、ひどく清々しかった。
見えた、ように思えた。


学校に居場所がなく、家庭は崩壊しつつあった現状で、
「見方」を与えられたのだ。


その後の諸々は省こう。
作品はどれも、私に新しい見方を提示してくださった。
そして、小説を書くことの16年の氏の沈黙は、必要であったのだし、
私はその間、なんだかんだと、生きていられたのだ。


「小説ラジオ」を読んだ。

文藝 2013年 02月号 [雑誌]

文藝 2013年 02月号 [雑誌]

最近の自分は、
余計な感傷がつきまとっているように想う。
自己、あるいは他者の思想への、美化は必要ない。
あるものを、あるように認識するのだ。
あの頃のように。


在るもの。
目に見えずとも、感じなくとも、在るもの。
在るもの。
音になり、言葉になり、存在として動き、発するもの。
在るもの。
それを見、聞き、感じ、想い、感じたいと、想うもの。
在るもの。
そういった人々が残した、綿々と継がれているもの。


自分なりの理屈が、先に立ちすぎているのかもしれない。
広く、意識を。


やはり氏は、私の先生であります。