kureru

死は、常に、ひっそりと、
ともすれば隙を窺うように
誰もの隣に居る。


ひとからしてみれば、あまりに不条理であろうと、
魂の美しさが誰よりも強かろうと、
死はいつもそこにいて、いつでもそちら側へ、すっと、連れ去ってしまう。
生きることに「業」は付きまとうが、
死に関しては、そんな因縁めいたものは一切作用しない。
誰も止められない。
いつ訪れるか知ることもできない。


唯一、すべてのひとといきものにある「平等」
それが、死。


終りは、ただ、そこに、あるのだ。
ひとは、その期日に、干渉することは絶対にできない。
医者だろうが、祈祷師だろうが、占い師だろうが。


だから私は、常に死を怖れる。
自らの、ではない。
これでも、後悔せぬ、生き方をしてきたつもりだ。
いつ死が目の前に来ても、そうか、と言える。


だが、
身近な誰かが死ぬこと、尊敬する誰かが、突然いなくなること。
これには、一向に耐性も覚悟も、備わらない。
もう、何度も経験したし、もう二度と経験したくない。
ただ、そう在るものだ、と理屈ではわかっていても、
未熟な私は、失う、と捉えてしまう。
私、という存在は、みんなの存在があってこそ、成り立っているから。
みんな、のどこかひとつでも欠けたら、私ではなくなってしまう。


これからはきっと、先に往くひとが増えていくのだろうなと、
・・・あきらめにも似た、気持ちはほんのりあるけれど。
そこそこ、長い年月を、いつの間にか生きてきたから。
未来は、自分ではなく、
誰かのために、存在するものに、なってきているからね。


感情的な衝撃に、耐えられるだけの生命力が、
少しずつ、失われているのかな、と。
悲しみを、未来への体力で、中和できていた少し前とは、確実に違ってきている。
どんなことでも、身体とココロ両方で受けないと理解できない、
面倒な性格だということも、あるかもしれない。
と、いいつつも、
辛すぎる現実から、すっと目線を逃がす術も、無くはないことを、知ってもいる。


率直にいう。
老いを意識し始めている。


達観というか、在るものとして受け入れることができる精神性にまでは至れていない。
かと言って、
失った痛みが、身体と心に刻まれたまま、血を、流し続けていて、
それを修復できる、肉体的・精神的体力は、
もう今の私には、ない。
ある部分では、納得してふっと息をついているけれど、
ある部分では、納得できずに、ごうごうと、葛藤を続けている。



大切なことには、
とてもとても、時間を必要とするので、
うん、と言えるまで、どれだけかかるか、まったくわからないけれど、
多分、ひとつの過渡期に、また立っているのだろう。



自分ができることは、
今、在るものを、最大限に愛すること。
形あろうと、なかろうと。
ただこれだけ。
距離感はどうあれ、共に同じ時代を歩めるということは、奇跡に近い幸運。
それを、大切にすること。


そうなのだが。
そうなのだが、


まだまだ
精進が足りません。


あの日から、年が生まれ変わる日までの1週間。
そんなことを、慌ただしくしながら、ぼんやりと考えています。