harikona2010-04-10

自分が一番多感だった、
中学後半から高校ぐらいの間に
影響を受けたのは、
まちがいなく、
いとうせいこう
村上春樹だ。
自我と社会と、
己が取るべき道を、
俯瞰して見るようになる
手助けをしてくれたのは、
間違いなく、この二人。


あと・・・そうね、
イリアムサローヤン
J・D・サリンジャー
夏目漱石辺りかしらね。



ま、この辺は、若者は必然的に通る道だがね。
・・・あの頃に、太宰に行かなかったことを、今、悔むべきなのか(笑)




先日、自宅の蔵書を整理していて、
売れずに残っていた本が、わんさか出てきて。


ああ、
あたしは、こういうところから、己の歩む道を、導き出したのだよね、と、
今、改めて、確認作業をしている。



多分、同じころ、
志村は図書館に通いつめて、同じようなものを読んでいたのだろう。
カズくんは、両国を走りまわりながら、模索を繰り返していた。
スネオさんは、大学通いながら、寺山言語を話していたのかな。


同じ時代を生き、同じ空気を吸い、
同じ方向ではあるけれど、確実に違うものを見ている、
尊敬する、彼ら。


こんな幸福なことが、あるだろうか。
その言葉や、作品に、直に触れらる、この、巡り合わせを。



ただ、今は、
それを真っ向から受け止めることができるだけの、自我が、おぼつかないから、
ゆっくり、確かめている。
自分の輪郭を。



具合悪いし、仕事忙しいしで、
まあ、かなり難儀してますが。



こればっかりは、
じぶんで咀嚼する以外、対処のしようがねえ。
元々、
手近な誰かに判断をゆだねることも、道しるべを乞うことも、
助けを求めるようなことも、
よしとしない性質なのでね。



切り離したつもりでいても、
血は、見えないくらい細い糸で、あたしを雁字搦めにしているらしい。
これは、多分に、己が故意に、ではあるのだろうが。
アイデンティティを、そこに見出している限り、
想定されることでは、あったのだから。



ただ、
結果的に、
自分がすがっていた、形のない精神の楔と、
抗っているようで、存在意義として固執していたものが、
ほぼ同時に失われてしまった、だけ。


その両方を取っ払った上で、残るものは何か?


さあ、
己の芯は?




無であることは、すでにわかっていること。



その、「在り続ける無」の上にある、仮設舞台の、上に立っている、
あたしは、何?



一度出た答えは、あたしの中では、砕け散ってしまったけれど、
現実には、その答えはデフォルトしていない。
意義として、存在している。


ならば。
それは、守るべき契約なのではないか。
あの頃のあたしと、今を生きるあたしが、なすべきことは、
やはり同じものなのだと・・・・うん。・・・わかってはいるのだが。




命に差はないなんて、詭弁だと思う。
それでも、
生き続けるべき人が、先に逝ってしまい、
何も成さないものが、生きている現実。



ただ、
それを嘆いても、憎んでも、
ヒトは、それに従うしかないのだから。
その事実は、曲げようもない。




もう、何が何だか、正直わからんのだが、
時間というやつは、意外と、力を貸してくれるものらしいことは、
なんとなくわかる。



最近やっと、
茜色の中、家路につくことができる。
色、と匂い、というのは、すごいな。
失くした、あるいは思い出せそうもない記憶を、
いとも簡単に、目の前にあふれさせる。