夏になったら帰って来てね

harikona2008-12-27

スネオさん
「バースデー」の中の一曲ですが。
最初聞いた時は、
ずいぶん哲学的な歌詞だな、
と思ったのですが、
今聞いていて、
・・・これって、
「フォーク」に入ってる
「自我像」に対する
アンサーソングなんかな?
と急に思ったり。


歌詞の中「存在」とは、
負の思考を持つ、謂わば裏の自分であり、
「太陽」は日常を生きる自分つまり「表」のこと。
いつもは意識しないようにしている、その影の部分の自分に、
急に出くわす時がある。
月が連れてきた「夜」に。
それに気づいてしまった時から、まるで体が分離してしまうような
時間軸の歪みを感じるようになる。
自分でもどうしようもない、暗黒に渦巻くようなもう一人の自分。
表の自分を邪魔する裏の自分。
日常を生きるためには、このもう一人と折り合いをつけなけれないけない。
これは、気づいてしまった人間にとっては、とても辛いことだ。
そして、そのやり方は、誰も教えてはくれない。
どこにも逃げ道はない。
「自我像」は、このやり場のなさを吐露することで、作品となったものだったけれど。


「夏になったら〜」では、こう、語りかける。
結局のところ、邪魔をする自分も、同じ自分であり、
それを愛することができるのも、自分なのだ、と。
逃げることも、忘れることも、知らないふりをすることもできる、
が、それをできない人間に生まれついてしまったのならば、
とことん見つめるしかない。
そして、見つめ合い、考えた末に、なんらかの答えを見出すことができたならば、
それは明るい夏の日差しのように、二人の自分を包むだろう。
そうすることが、きっと、できるはずなのだ。
そうなれることを信じて、その先で、此処で待っているよ、
と。


その存在を知らないままに、日常を生きていけるような、人もいるのだろうけれど。


どうでしょう?


今日のあたしには、こう聞こえました。
勘ぐりすぎっすかねえ?(苦笑)


わたしにとって、夏=ライジングサンなんで、
最初はそっち方向に受け取っていたんですが、
ちょっと、違うなー、と思いながらずーっと聞いてて。
「夏」って季節ともとれるけど、
「此処」って具体的な場所じゃねえな・・・って思ったら、
上記のような考えがぶわーって浮かんできまして。
むむむ。
言葉数が少ないだけに、受け取り方はいくらでもできる曲ですねー。

バースデー

バースデー