ご無沙汰してました。

いやー、参りました・・・。
3週間ばかり、本気で落ちてました。
正直言うと、2月頭くらいから、落ちそうなのをあえて見ないフリしていたのですが、
スネオさんの地元ライブ終了直後から、
見ないようにしていたことを引っ張り出された上に粉みじんに砕かれてしまい、
自分の中に何もないことを見せつけられて、呆然としてしまって。
なんにもない。カラッポっす。


いろいろなことが同時多発して、
ここ何年もなかったくらい落ちてました。
年齢的にも、そういう時期だったんだとは思いますが、
今までの人生を振り返った時の、
なにも無さ加減に圧倒されてしまって・・・。


まだ完全復活とはいきませんが、ようやく書けるまで戻りました。
潜在的に、先へ進もうとするうねりの大きさを掴み切れずに、
こんな年まで生きてしまった自分に対する
嫌悪感と不信感が一気に膨れちまったらしい。


何も変わりはしない。
大した能力も、影響力も持って居ない。
たかだかそんな存在なんだ。
何を期待してたんだ?


今更ながら、思い知らされた数日間。
ドットプリンターの1ドットでしかないんだよね。
その「点」であることの範囲内で、
鮮明に打つ事が出来るかどうか。
自分で納得がいく点を打てるかどうか。
他者の目線なぞ関係ないのに。
出来ることをやるしか出来ないんだ、結局はさ。
キャパ・・・限界を決めてしまうのは、それだけで成長を止めている、
という見方も出来るし、
いい訳だととられることもあると思う。
けどさ、
その枠・・・を見失っただけでこんなにも取り乱すくらいのスケールの人間ならば、
受け入れられる範囲内で、生きていくしかない。
さもなければ、
完全になにもかも、常識と呼ばれるくだらない、が、しがみつかなければいられないものからも
脱却するしかない。
そんな勇気も、完全に狂うまで自分を手放しにすることも出来ない。
ちいさいんですよ。自分。


強さを身に付ける、というより、
弱さを否定せず、開き直れる潔さにようやく辿り着けたというか。
あきらめ、とはちょっと違う、位置確認作業。


個であること。
地面に足を付けた、個でいられること。
・・・・こんなにも難しいことなのかね。


さて。
どう思われようが、歩みを止めることは出来ないからね。
歩いて行くしかないのさ。
歩けているだけ、マシなんだろうよ。


カズ君に説教されそうだけどさ(苦笑)
ここまで落ちる、というか、
自分の立ち位置を確認しなければならい状況まで自分を追い詰めたのは、
スネオさんのアルバム「フォーク」とライブでのパフォーマンス、
そして100sの「OZ」というアルバムがほぼ同時期に、
この世に生まれたということが多分に影響している。
この人らの生き方が込められた音は、
受け取る側に対して、ものすごい鮮明な鏡になる。
見たくないことも、見過ごしてしまいそうなことも、
何もかも、自分の人生すべてで受け止めなければならないくらいの‘念‘みたいなものが
凝り固まってできた作品だから・・・さ。
うすっぺらな自分には・・・・ちいと荷が重い・・・。
が、だからこそ、引き付けられるんだろうな。
彼らが作る曲たちのように、世の中と対峙できる確固たるものを自分の中に築きたい。
頼ることなく、受け止められるだけの自分を。


ま、そんなことを思ったワケです。