つぶやき症候群
えー、
ほんとすいません。
生きてますよ。ちゃんと。
ええ。
あたしにとって、
この「書く」ということ自体が、
なにかしら、
こころを落ち着けるための、
儀式というか・・・行為として、
きちんと意味を持っているのだな、と、
なんとなく思ったりしています。
誰が見ていなくても、なににもなっていなくても、
・・・自分自身が、忘れてしまっても、
その瞬間に思っていたことは、何かしらの意味があり、
身体やこころの一部になっているのだ、と、
・・・多分、思いたいのだろうな。
普段の生活にも、仕事にも特段不満というものはないけれど、
潜在的に欠けているものを、埋めるには、足りないのだ。
だから、音楽に頼るし、映画も本も漫画も、手放せない。
生産性がなく、極力他人に干渉することを避ける生き方の人間は、
生産し、それによって他人に干渉するしかない生き方をする人間にあこがれる。
いいもわるいもなく、
ないものねだりであることも承知で。
そこに、
私にはない、なにかがあるから。
命の煌めき、とでもいえるような、強さと美しさがあるから。
その目には世界はどう映っているのか。
先日、久しぶりに同期会がありました。
入社してから、16年。
父になり、母になり、部下を持つようになるくらいの時間、
そりゃあ経ってるわなあ。
呼ぶ名も変わるし、役職もつく。
うざいやつは、いつまでたってもうざいけど(苦笑)
でも、
ここにいると、
18才高卒ぺーぺーのままでいられる。
利害関係、関係なしに。
これっておもしれえし、とってもありがたい。
縁は、ここでも生きている。
同期で高卒って、ほんの4,5人なんだけど、
その中でも、仲良いやつにひさしぶりに会えて、
・・・・ついつい、言わなくていいことまで愚痴ってしまった。
大人になってから出会える、「友人」と呼べるほどの存在って、
とても貴重。
価値観が固まる前の学生時代の友人たちは、
同じものを共有している時間が多いから、疑うべくもないけれど、
好きも嫌いも見極めつつある段階で出会えた、
価値を同じくする人は、
時間も立場も、完全に超越している感じがする。
根本が、近い、とでも言おうか。
どちらがいいという話ではなくてね。
久しぶりに、志村のことで泣いた。
それも、志村のことを知らない奴の前で。
悲しみの、質が変わっているのは、認めよう。
それが怖い、と思っていることも。
「失った」という概念ばかりが先行して、
本当の痛みを、見失ってしまうのではないか、と。
いつまでたっても、リアルだな。
当たり前だが。
夢でも、マボロシでもない。
過去にもならん。
この喪失は、リアルだ。
かなしみをぶちまけて、大事な友人に気を遣わせるなんて、
あたしも、まだまだだな。
だが、
おかげで、確かめることができたよ。
もつべきものは、友、だな。
この関係性の中で、
生かされているということを、忘れてはならない。
たとえ、
それを失ったことで、この圧迫感が消えないとしても。
そして、
まだ、
全然書いてる途中なんですけど。
スネオさんには、やっぱり頭上がんない。
おみとおしだわ。あの方。