小言

最近の子供たちは、
どれくらいの力を込めると
相手にどれだけダメージを与えてしまうのか、
自分の行動によって、他者にどんな影響を与えるのか、
ということが推し量れないのだろうな、と身をもって思う。
自分らの子供の頃は教師の体罰とかまだ平気であったし、
門限過ぎて帰ると親にぶん殴られた。
だからどれくらいの力が篭れば痛いかは、体でわかってた。


体罰が必要だ、という話ではない。
経験則の話。


同じような前提で、
相手の心を理解しようとする、という気持ちも、少し足りない気がする。
出題者があらかじめ用意した答え、
意図的に導かれる価値観、
安易で簡単で、思考の必要のない日常。
いいかわるいかだけで括られる感情。
その場だけ、
その外側の煌びやかさや激しさに、ただ溺れさせるような表現。


何を謂わんとしているのかを考えずに、
己の欲求だけを満たそうと躍起になる感覚。



逆に、
我々の世代は、
安易に物事を語ろうとしない。
それはたぶん、裏切られるような出来事が、思春期に立て続けに起き続けていたから。


バブルの崩壊。
9.11。
阪神大震災
その後のこと。


当たり前にあったものが、
いとも簡単に、崩れ去り、意味を成さなくなる。
その中でも、必然的に残っていった、真実。


起きた事象の、その奥を読まなければ、
正確には時代を掴めなかった我々世代。
だからこそ、言葉にするのに何重にも予防線や比喩や知識を必要とした。



どちらがいいとかわるいとかの、ことでもない。
ただ、自分は所謂ロストジェネレイションと呼ばれる時を過ごして、
想像力と理解力は、結果的に養われていたのかな、とは思う。


苦労はした。
だから、後の子らには苦労させてはいかんと思った結果、
今の環境を作ってしまったのは、我々世代なのかもしれないとも思う。



だが。
だがしかし。


教えられたこと、与えられたことだけが、君らのすべてだろうか。
言葉になっていること、
形になっている音やものが、
ただその形それだけのために、生まれているものだろうか。

状況を見極め、相手の意図を読み、尊重し、
互いに最善の方法を見つけることは、そんなに面倒なことだろうか。


自分さえよければ、すべて収まると、本気で思っているのか。


自分にどれだけの力があるのか、
世界と照らし合わせて、推し量ることをしているだろうか。





もちろん、
そんな子らばかりではないということも、分かっている。
分かっているさ。


けどね、
おばさんは、少し不安になりました。
ちょっとね、小言を言いたくなっちまったよ。