距離感

harikona2011-05-08

言葉にするのは
とても難しいものに
惹かれるからこそ、
受け取ったものについて
こうやって書き表すことには
慎重になっていたはずなのに、
ツイッターという
即効性と即時性あるツールに、
依存していたところがあります。
このブログに書く時は、
何度も推敲して、ある時は一晩おいてから
保存するようにしているのに、
ツイッターは、
そういう自分に対する
リミッターを忘れてしまうことが多々あります。
多分、
自分が尊敬しているひとたちが、今現在、同じ時間を共有しているということが、
直に感じられてうれしくて、だからこそ、
今思ったことを、今、良いも悪いも関係なしに、言いたい、と、
はやる気持ちを押さえられずに、
自分の意志の、中身を確かめることを、忘れてしまうからなのだと。


でも、
それって、暴力に近いんですよね。


ひとつのことばには、
全方位的に展開される意志や、理屈や現実、知識が反映されていて、
瞬時に把握できるものはそのうちのほんのわずかなものだけなのだから、
衝動も、大切だとおもうけれど、
感じたもの、そこから思うもの、
さらには、その先に描かれているであろうこと、
すべてを慮ってから、ことばにすべきなんです。
自分が、出来る限りでいいから。
まずは、立ち止まって、なぜそうなるのか、考えてからカタチにすべきだと。
面と向かって話している訳ではないのですから、
そのことばが纏っている空気まで、字面で推し量ることはできない。
だからこそ、慎重に判断しなければならない。
ことばから感じたひとつの感覚に対してだけ、
反応して言い募るのは、わかろうとする努力をしないで、
感情・・・エゴを、ぶつけているだけにすぎないのです。


安全とか、安心と言っている政府が、
何を根拠にそれを言い、何故そういうのか、
その背後にあるものを、見極めないと受け入れることはできない。
利権や保身のために、国民の命や平安を、投げ打っているということを、
完全に否定できない現状を見せつけられている、今。
それと同じことは、日常的に身近なもの、自分が携わるものにも起きているのだ。


そして、
自分が、ライブと言う場をとても大切にしている、その意味を。



そんな、自分の基本的なルールも忘れてしまうなんて。
体調不良はいいわけにはなりませんね。


もともと、そんなに器用な人間ではないのです。
発する前に、自分の足元を見つめないといけない。
たいした知識も、慮るやさしさも持ち合わせてはいないのだから。



反省することしきりです。
しばらくツイッターは、距離を置かないとダメだと思いました。



北国にも、やっと春がやってきました。
花の美しさは、意志とは関係ないところが好きです。
ただ彼らは、あるがままいて、その美しさを放っている。
人に、安らぎを、意図せず与えながら。