やっと、
音楽が健全な形で、
あたしのところに
戻ってきたように思います。


スネオさんの存在は、
あたしの中で、特別なんだな、と、
改めて認識。



何を聞いても志村の影がついてまわっていて、
このまま、ずっと、
「音楽=失うことの悲しみ」という構図から離れられなくなり、
作った人たちの声が、聞こえなくなってしまうのではないか、と、
半ばあきらめのような心持でいたのですが。





スネオさんが、先日のライブのアンコールで歌ってくださった
金延幸子さんの「時にまかせて」
そして、「自問自答」と「スピード」


まるで、アオイソラに視点だけが舞い上がって、
ぽつねんと立ち尽くしている自分を、俯瞰で見ているような、そんな感覚になって。



犬のようにあなたの影を追うの もうやめよう
思い出す時に 思い出せばいいさ
すべて時が 解決してくれる


問いかけのような毎日が
答えも無く離れもしないで、ここにいる
問いかける毎日に、答えは無くても


すごいスピードで 瞬きも出来ずに
まるで時間は止まってる 間違い無く動いている





これがすべてだと、思った。
あたしが、向き合わないといけない、現実と自分の、すべて。



いない日常を生きるのが苦痛で、
失った衝撃とそれに付随する諸々を、早くどうにかしたい、という逃げの気持ちと、
いなくなってしまったことが、日常になることへの罪悪感。


その両方から、
時が進むことに、
恐怖を覚えていた。


早くこの苦しみから逃れたい。
けれど、逃れることは、あいつに対する冒涜ではないのか。


矛盾する感情の、葛藤。



でも。
そうではない。
そうでは、ないんだ。



時が流れていくのは必然であり、
その流れに翻弄され、呆然と見送ることしかできなくても、
そこに、その流れの中に、確実に自分は、いる。
時間には、取り残されてもいないし、見失ってもいない。
ただ、時が流れていくことそのものを、恐れてはいけないのだと。


流されるのではなく、それによって変化していくことが、当たり前なのだ。




わかりあえなくて当たり前で、
わかろうと必死で、戦ったこと、それこそが、証なんだと。








志村を想うこと、ではなくて、
志村を想うことに振り回されている自分、を、
やっときちんと見つめることが、できた気がします。






えー、すいません。
書きかけですが、あえて、人目にさらす形で保存しておきます。
あとで加筆します。




スネオさんには、やっぱりかなわねえな。