成長と老いと死
生きている限り、
知らないことや、
感じたことのないものに、
延々と出会っていく。
そりゃあねえ。
地球上には、
約60億も人間がいるし、
約202カ国も、
国家が存在するんですもの。
考え方も、捉え方も千差万別。
それを、おおっぴらに表現する人もいるし、
大きな思いを内に秘めたまま、消えていく人もいる。
世の中には,自分と違う人しかいない。
いずれ、何もかも消えるのだ、と、あきらめとともに受け止めている反面、
それを上回る回数で、驚くべきことが起こるのが、日々。
人と関わらざるを得ない故の、矛盾、というか。
得るもの、捨てるもの、残るもの、生み出すもの、
元から備わっているもの。
いつのまにか、そこにあるもの。
それらに対し,何を感じ,どう動くか。
万人が「いい」と思ったものが、
本当にいいものとも限らないし、
結局のところ、自分にとって、何が本当に必要なのかは、
死ぬ間際になってもわからないのかもしれない。
目の前にある「欲望」は、いずれ淘汰されていくのだろうし。
死を、なくなることを目の前にしたとき、
あたしの手の中には、何が残るのだろう。
よく、死ぬときに後悔したくない、っていうけれど、
後悔が一つもない人生なんて、
よほど鈍感な人じゃないと、ありえないと思う。
いいところだけを見るか,全部を受け止めるかの違い。
後悔も受け止めた上で,納得して死にたいなあ,とは思う。
おじいちゃん、おばあちゃんと、たくさん接する機会があった。
自分の親も、自分のいとしい人も、当然,自分も、
いずれ、こうやって、年老いていく。
判断力が鈍り、体力が衰え、
好きとか嫌いとか、社会とか,世界とかに、考えが及ばなくなる。
今自分が、社会とつながっていなければ生きていけないのとはまた違う意味で、
誰かに寄りかからないと、生きることすらままならなくなる時が来る。
今必死に自分に問いかけていることも,いずれ忘れてしまうのかもしれない。
でも、それって、
嘆くことじゃないんじゃないかな。
生物が衰えるのは、
生きることの矛盾から開放しつつ,
死に対する恐怖感を徐々に和らげるためなのかもしれんな。
いい笑顔で、笑ってくれるお年寄りと話をしていて、
なんとなく、そんなことを思った。
なんだかとりとめのないことを書きました。