帰結するところ
歌が自分の心象に近い、というか、
ああ、この感覚だ、と初めて感じたのは、
ひょっとしたら、まさやんだったかもしれない。
学生時分にもそりゃあいろいろ聞きましたが、
あこがれ、とか理想、みたいなもんの方が強かったような気がするなあ。
こうなりたいなあ、とか、こう思えたらなあ、とか、
こんなことがあったらいいなあとか。
あたしもそう思うんだよね、というのとはちょっと違ったかも。
やっぱり若いなりに、希望を夢見ていたのかな。
まあ、現実はそうならんことは、重々承知ではあったけれど。
歌に理想を見ていたんだね、きっと。
それが、ああ、そうだよね、とスッと入ってきたのは、
まさやんの「名前のない鳥」だったんだ。
荒涼とした地平にぽつねんと立って、空を見上げている、
あの圧倒的な孤独。
・・・やー、辞書的な孤独とは意味が違うけども。
なんだろう。悲しさとか辛さは一切伴ってないのですよ。
表現の方法として「孤独」と言ってしまうと、
なんか、繋がりたくとも繋がれない、みたいな感じだけども、
人がいて、家族がいて、社会があって、国があって、世界があって。
生きるために繋がっていくことは絶対的に拒めないけれど、
個、であることが事実であり、
同じ個体は絶対に存在しない。
分かり合えないのが当り前であり、それをお互いに尊重するからこそ。
そういう「孤独感」
それが事実。
事実を事実として、ここにあることを歌う。
希望も夢も、過去も後悔も、
皆ひっくるめて、現実に生きている自分という個体であるということ。
それがこの曲に全部こもってるように思えて。
とどめは「水のない水槽」
繋がっているように思えても、個であることに変わりは無い。
これは本当に、世の理がこの曲にあるように思えてしまうくらい。
この曲には少し切なさがこもっているけれどね。
この人だけとは、完全に溶け合いたい、理解したいと思って、
精一杯努力はするのに、朝がきてしまう。
生きる、ということにいつまでも付き纏う「わかりあえなさ」
立っている場所は違えど、
見ている景色はいつも変わらない。
それがまさやんのすごいところだ。
どんなに受け入れられたように見えても、
周囲の状況が変わっても、
人がたくさん関わって、尚且つそれが、その人たちの生活を巻き込んだ上でのことだとしても。
まさやんの歌ううたにかわりは無い。
「心拍数」「コイン」「星に願いを」「振り向かない」
「月曜日の朝」「やわらかい月」「UNTITLE」「全部、君だった」
アルバムごとに必ずこの「匂い」が色濃く出る曲があるから。
ここから、どうにかしたいとあがいた上で、結果出た答えが
スガシカオの「黄金の月」であり、
それを問いただされたのがスネオヘアーの「フォーク」なのです。
見たくないものは、いつも音楽で気づかされ、叱咤される。
昨日のサンボマスター、山口くんの血の滲むような叫びに引っ張られ、
たくさんの人と一緒に「愛と平和」と叫びながら、
涙がこぼれたのは、そういうことなのだと、思った。
自分は自分であり、そうでなければいけないとも思い、
そうとしか存在しえないのだが。
でも、共に分かち合いたいとも、切実に思っているから。
あなた方と一緒に、ロックを鳴らしたいのです。
サンボを感じながら、何故かまさやんを思った昨日でした。