帰結するところ

harikona2006-03-06

歌が自分の心象に近い、というか、
ああ、この感覚だ、と初めて感じたのは、
ひょっとしたら、まさやんだったかもしれない。
学生時分にもそりゃあいろいろ聞きましたが、
あこがれ、とか理想、みたいなもんの方が強かったような気がするなあ。
こうなりたいなあ、とか、こう思えたらなあ、とか、
こんなことがあったらいいなあとか。
あたしもそう思うんだよね、というのとはちょっと違ったかも。
やっぱり若いなりに、希望を夢見ていたのかな。
まあ、現実はそうならんことは、重々承知ではあったけれど。
歌に理想を見ていたんだね、きっと。


それが、ああ、そうだよね、とスッと入ってきたのは、
まさやんの「名前のない鳥」だったんだ。
荒涼とした地平にぽつねんと立って、空を見上げている、
あの圧倒的な孤独。
・・・やー、辞書的な孤独とは意味が違うけども。
なんだろう。悲しさとか辛さは一切伴ってないのですよ。
表現の方法として「孤独」と言ってしまうと、
なんか、繋がりたくとも繋がれない、みたいな感じだけども、
人がいて、家族がいて、社会があって、国があって、世界があって。
生きるために繋がっていくことは絶対的に拒めないけれど、
個、であることが事実であり、
同じ個体は絶対に存在しない。
分かり合えないのが当り前であり、それをお互いに尊重するからこそ。
そういう「孤独感」
それが事実。


事実を事実として、ここにあることを歌う。
希望も夢も、過去も後悔も、
皆ひっくるめて、現実に生きている自分という個体であるということ。
それがこの曲に全部こもってるように思えて。


とどめは「水のない水槽」
繋がっているように思えても、個であることに変わりは無い。
これは本当に、世の理がこの曲にあるように思えてしまうくらい。
この曲には少し切なさがこもっているけれどね。
この人だけとは、完全に溶け合いたい、理解したいと思って、
精一杯努力はするのに、朝がきてしまう。
生きる、ということにいつまでも付き纏う「わかりあえなさ」


立っている場所は違えど、
見ている景色はいつも変わらない。
それがまさやんのすごいところだ。
どんなに受け入れられたように見えても、
周囲の状況が変わっても、
人がたくさん関わって、尚且つそれが、その人たちの生活を巻き込んだ上でのことだとしても。
まさやんの歌ううたにかわりは無い。
「心拍数」「コイン」「星に願いを」「振り向かない」
「月曜日の朝」「やわらかい月」「UNTITLE」「全部、君だった」
アルバムごとに必ずこの「匂い」が色濃く出る曲があるから。


ここから、どうにかしたいとあがいた上で、結果出た答えが
スガシカオの「黄金の月」であり、
それを問いただされたのがスネオヘアーの「フォーク」なのです。


見たくないものは、いつも音楽で気づかされ、叱咤される。


昨日のサンボマスター、山口くんの血の滲むような叫びに引っ張られ、
たくさんの人と一緒に「愛と平和」と叫びながら、
涙がこぼれたのは、そういうことなのだと、思った。


自分は自分であり、そうでなければいけないとも思い、
そうとしか存在しえないのだが。
でも、共に分かち合いたいとも、切実に思っているから。
あなた方と一緒に、ロックを鳴らしたいのです。


サンボを感じながら、何故かまさやんを思った昨日でした。