情報の波、思考の渦。

何を選び、何を受け取り、何を残して行くか。


‘個‘であることを強く望んでいる自分に取って
全世界と繋がることが出来る今の状況は
非常にありがたく感じると同時に
空恐ろしい気分に襲われる時がしばしばあります。


まあ、「繋がりたい」と思うからこそ
こんな、誰が読むともしれない日記のようなものを
つらつらと書き綴っているのだろうし、
ライブの現場にも足を運ぶのだろうけれど。


理解など永遠に出来ないであろう「自分」。
自分でも理解しきれない自分を、他人が分かろうはずもなく。
・・・でも、
繋がっていないと生きて行けない、厄介な人間という生き物。
わかって欲しい、と同時に、分かる訳が無いという諦めの想いが
ココロの中でいつも混在している。
じゃあ、どうしたいんだ?と己に問い掛けても
まったく別のベクトルの答えが同時に出てくる。
わかって欲しい。わかられたくもない。


この「生きる」というエネルギーは
果たして何を生み、何を成して行く事が出来るのだろうか。


人間が「生きる意味」など、宇宙や地球からみれば
ミクロの意味も持たないかもしれない。
・・・ならば、そうであるならば。
せめて、すべてのモノにとって
マイナスのなるような「生」を生きることは、
なるべく避けたいと思う。たとえミクロ単位でも。
何かの間違いで「生きることを許された自分」の命。
自分にとって、無理が生じることだけを避けなければ
ひとのためなどと、言える訳がないのだが。
生きられなかった命、生きたかった命。
そのためにも、
生きていることを
何かしら形にしていかなければ
「いなくなってしまったのモノ」への申し訳が立たないのではないか?


伝わっていく力が強い「音楽」というもの。
その表現を命がけで選んだ人たちを見ていると、
己の生き様を問い掛けられているように、いつも思う。


受け取れるだけの、器が自分にはできているのか?


・・・こんなこと書きたかったんじゃないいだけどな(苦笑)


鹿野淳」というライターがいる。
私はこの人の、音楽と音楽を作る人に対する姿勢に共感が持てるので
この人が「いい!」という音楽に対しては絶対の信頼をおいて聞いているのだけど
つい先日行われたスネオさんとの対談を読んで
上記のようなことを思ったワケです。
発信する側の思い、それを伝えたいとする人の思い。


受け止られるだけの生き方が、自分には出来ているのか?
未だ答えは、出せません。
永遠に出ないかもな・・・。