世間、個、干渉、想いやり。

自分がされて嫌なことは、
極力しないってことです。



説明もないままに、
不機嫌をぶつけたり、
思い込みで、
自分の感覚を押し付けたり、
分かってくれてると過信して、
話を進めたり、
みんながそう言ってるから、と、
責任を丸投げしたり。



言わなくてもわかるよね?ってこと、
確かにあるけれど、
言わないと分かんないことの方が、絶対的に多いから。
親しくても、信頼してても。







人とは、大分違う道を歩いてきた。


対外的なことではない。
内面の話だ。



自分が継いだものと、自分が残せるものとは何かを、散々問いかけた結果、
選んだ道だから、後悔はない。


一般的な正しさとか、
大多数の人が目指している安らぎと呼ばれるものとか、
人間という生物としてこうあるべきとかいう、
固定概念みたいなもんからは、
遠く離れたところだ、という、自覚はある。


そんなもんは、どうでもいい。
自分が納得できてれば、それでいいんだと、勝手ながら思う。


貢献?
発展?


そんなものを、我慢してまでする必要はない。


ただ、
他人の一生懸命を、考えもなしに踏みにじろうとする奴だけは、許せない。



あたしは、あたしの道を、ただ、ゆきたいだけなのだ。
それは、他人を押しのけてまで、作るような道ではない。
誰かが作ったものを真似るようなものでもない。
奪ってまで得るようなものでもない。
目の前に広がっている荒野の石ころを、
歩きやすいように少し均しながら、静かに消えていきたいだけ。


ヤじゃん。
勝手に比較されて、勝手に否定されて、
自分がそうやってるのを、考えもなしに馬鹿にされるのってさ。



誰の邪魔もしない。
否定もしないさ。
誰も巻き込みはしないよ。


だから、
あたしの邪魔も、しないでくれ。



静かに、消えてゆくから。



誰の人生にも、あたしは干渉したくない。




と、まあ、これは、あたし個人の生き方の問題。







そして、もうひとつ。






命の数だけ考え方があって、それぞれが懸命に生きていて。
みんな別の存在であって、同一のものなんて、あり得ない。
己の価値観、それすら、絶対ではない。



いつもまっすぐに居たいとは思うけれど、
嫌われたくない、とも思うし、
同じだ、と思い込んで、安心したい時もある。



いいと思うものが皆違って当たり前だし、
悲しいとか辛いとか感じる度合いも、人それぞれなんだ。
気配りをそのすべてにしようとするのは、無理がある。
自分の想いを分かってほしいと思うのなら、
そういう人も、いるよねと、違いを尊重することも、必要。



己の尺で、すべてが判断できる訳ではない。
感情的に受け入れられないこともあるけれど、
自分が感じたこと以上の想いが、相手側にあるかもしれない。



言葉の裏を、もっと考えなくてはいけないと、最近痛切に感じる。








失うこと、あるいは失ったことに対しての対処の仕方は、
画一化できるものではない。



「慮る」という言葉は、とても深いと思う。



自分の感覚、
友人たちの感覚、
自分が好きだと思う人たちの感覚、
相入れなくとも、納得できる感覚、
何億といる他人の、それぞれの感覚、
それらの総意が生みだす幻影。



すべてを、自分とは感覚が違うから、とあきらめるのは、違う。
否定から始めるよりは、
何故この人は、そういう表現をするのか?と、
歩み寄ることが、何か大きな流れをいい方向に向かわせる、
ひとつのきっかけなのではないか、とも、思う。


ただ、
言葉にすること、表現して自分はこう思う、と表すことに対しては、
全責任を、自分で負うこと。
そして、受け取る側がどう感じるのか、最大限に思考すること。
まず、それを成しているということの覚悟ができていないのなら、するべきではない。
どんな些細なことでもね。


そして、
背負ってる人が表したことに対しては、
表面だけをなぞるのではなく、その奥に潜ませている想いまでも、
推し量ってから、反応すべきだと思う。
例えそれが、間違った解釈であったとしても、
それを受け取った上で、どう感じたかを考え、形に成すことこそが、
表現に対しての礼儀だと思う。






言葉とは、なんとむずかしいものか。




いつも、そうやってせめぎ合っている。