選択

harikona2008-09-26

些細なことでも、
自分が
たくさんある選択肢の中から
選び取ったものには、
責任を持つべきだと思っている。
そして、そのことが、
自分の思ったとおりの
状態にならなかったとしても、
反省をすることはあっても
後悔をぐだぐだ言うようなことは
すべきではないと。


そりゃあ、自分の生き方に、
まったく後悔していない、とは言い切れない。
そんなに、強く・・・というか向こう見ずな生き方はしていないし、
誰かの所為にしないと、耐えられなかったときもあったし、
何かを守るために、自分を殺す、という道も、不本意ながら取ってるさ。
そうしないと、自分を保てない、ってことも、ある。


でも、それは、そうなるべくして、そういう道が出来たのだ、と、
受け入れることこそが、
この先へ、伸びる道を見つけるための、しるべになるのではないかな。
どんな状況になったとしても、
その場にいる自分は、自分で選んだ末に、立っているところなのだから。
外的要因の所為にするのは、逃げだし、言い訳だとおもう。
ここに立ったこと、
そしてこれから向かう場所、
そこから、見える景色。
すべて、自分で、選択したものなのだから。


うぜえんだよ。
後悔ばかり、並べ立てる野郎はよ。
いいなァ、うらやましい、
あたしよりいい目を見てるから、こうしてやる・・・。
そんな言葉や行動は、
己をおとしめるための言葉だと、なぜ気付かないんだろう。


受け入れることもせず、己の目の前のことにしか、目が向かない。
自分が、自分がって、
それで、
そんな気持ちで、
いろんなものを見ているのなら、
何も、何も受け取っていないと同じなんじゃないだろうか。
何を受け取り、どう返していくか。
そこが、
そこにこそ、表現というものに、いのちをかけている人たちへ、
報いる力になるんではないか。
その時、その場にしか、起こりえない想い。
そのことに、敬意を表すべきなんではないか。


考えろ。
考えること、見つめること、その先を願うこと。
それをやめてはならない。
あきらめてもいけない。
気づけないなんて、問題外だ。


誰かに変わりたいなんて思わない。
生まれ変わるとしても、自分のままでいい。
もし、なにかの間違いで、同じような立場に置かれたのなら、
自分のままで、自分の意思で、選択肢を変えてやる。


生きることを、惰性に任せては、ダメだ。


ああ。
そのためにも、
あたしは、オノヨーコという生き証人に、
逢わねばならないのだろうな。
それが、巡り合わせなのだと思う。


優越感?
ただの感違いだろう?