現実を生き、呼吸をつなぐために

理詰めの仕事をし、
仕事から離れたところでは、
現実から意識を逃がす方向で生きる私。


感覚と感性の仕事をし、
(ある面では理詰めのところもあるけれど)
現実しか見えない生き方しかできない方。


まあ、
育ち方やら、環境やらも、当然あると思うけれど、
なんというか・・・・、
自分という存在の、根本が近い感じがあるのが、不思議。



こんなにも違う生き方をしている人の、コトバや音に、
たまらなく魅かれるのは何故なのだろう。



ただ、好きだから、と言えない性格が、面倒だと思う。


でも、
何故好きなのかを、
考えることこそが、人間として正しい行為なのだと思うのだ。



繋がる理由を考えることは、
繋がれない理由を知ることにもなる。



あきらめるには、早すぎる。




自分の尻を、もっと叩かないといけないと思う。




先日、職場の飲み会に出席したのだが、
今の世の中、とても生きづらい、と感じている人間は、どうやら少数派らしい。
これには、少なからず驚いた。


その、多数派のひとたちの話を聞いていると、
自分というものを、生活にそのまま反映できている、という、
確固たる感じでも、ないんだよ。
不満がないから満足、みたいなさ、
目指すところがないから、現状に合わせていく感じ、というか。


違和感すら、感じていない。



や、
自己実現がなっているのなら、それに越したことはないんですがね。
意識を向けるところって、
多方面に存在しているから、さ。
そこで終わってるのなら、人間としてどうなのかなって。



投票率が低いことやら、
ちょっとした気配りで無駄を省くとか、
垂れ流されている情報に疑問を持つこととか、
自分に直接関係ないと、シャットダウンした先に、
誰かの命が、ぶら下がっていると意識することとか。




知ろうとしないことは、
罪にひとしい。



そして、知ったからには、出来る範囲内で、
自分の信じる方向へ、何かをしないといけない。
無理は、してはいけないけれどね。
自分を壊してまで、何かに貢献するのは、逆に足を引っ張ることになるし。





考え過ぎかな。
ここまで考えてしまうと、確かに、言葉数は減るね。
その所為で、妙な誤解を生んでいるようでもあるし。



うまくは、やれないねえ。
あいかわらず。