久しぶりに、
「スカート」ツアーの映像を見る。
CSフジで放送したやつね。


このツアー@札幌で
{蒼い虹}や{太陽}を聞いたときに、
随分、歌い方がやさしくなったなあ、
と感じたことを思い出したのだけれど、
この日から、
いくつものライブを経た
今のスネオさんに比べると、
それでも、随分荒い。


スネオさんって、いつもライブ中は死に物狂いで、
余裕なんてないし、出せるだけ全部さらけちゃう方ですけど、
・・・・なんて言ったらいいのかな・・・。
最近のスネオさんって、
さらけ出すことを、がんばらなくても出来るようになってきた・・・とでも言うか。
や、そりゃあ、
すごい緊張するだろうし、怖いだろうことは、当然だと思いますが・・・、
「想いをのせてうたうこと」に対して、覚悟が決まった感があるんですよねえ。
ここまで重ねてきた時間と、繋がり、
貫いてきた(変えることのできなかった)己のうたに対する誇り。
それらが、ステージ上での、うたに、如実に現れていて。
当然ながら、生まれてくる作品にも、反映されて。
そして、
・・・自惚れていると取られても致し方ないですが、
・・・・聞き手に対する信頼、が、ここ数年でやっと(苦笑)感じられるようになって。


あたしはね、
この、音楽に対してはまっすぐにしか生きられない、
うそをつけないスネオさんだから、信頼してる。
大切にしているうただからこそ、
己のすべてが表れてしまう。
その時の精神状態そのままが、全部出るし、
本当に聞こうとしてくれてるのか勘ぐるし、
それでも、聞いてほしいから、精一杯、うたう。
だから、
ちゃんと聞いてる側には、それが全部聞こえるから、
痛いし、辛いし、ドキドキするし、あったかくなるし、やさしいきもちになれる。





2月のキネマ倶楽部でのライブ。
なんだかねえ、すごく不思議な感覚が残っているんです。
スネオさんのライブでは、初めてだったかもしれない。


初めての場所、久しぶりのライブ、
アコースティックでこんなにたくさんの曲数をやったのも初めてだったし、
ゲスト(ワイヨリカのazumiちゃん)呼んだり、と盛りだくさんで、
ちょっとね、大変そうだったけれど(苦笑)


あたしはこの日、
実は、怖くて仕方なかったんです。
志村がいってしまって、
それ以来、音楽という音楽がほとんど耳に入ってこなくて、
かなしさと辛さだけが、心に蔓延していて、
このまま、音を楽しめる日は、やって来ないんじゃないかって、
・・・・スネオさんのうたですら、耳に入って来なかったら、どうしようって・・・。


でもねえ、
スネオさんのうたは、そんなねえ、甘いもんじゃなかったです(笑)
否が応でも、聞かざるを得ない。
そして、それに呼応する、自分の声と向き合うことを、余儀なくされる。
言葉にすると、ちょっと強いけれど、
それをね、すっと、強要することなく、
スネオさんが精一杯にうたに乗せる「こころ」に耳を澄ませていると、
気づくとそうなってるんですよねえ。
・・・まあ、あたしが勝手に、スネオさんのうたに、
「自分」を投影しているだけの話なんでしょうけれど。




この日、
楽しいうた、あたたかいうた、チクっと刺さるうた、
自分と向き合う厳しいうた、
いろいろな景色、たくさんの想いがうたわれたんですけど、
何故かね、
ずっと、
ひとつの想いが、ずっと、底の方に、流れていたような気がするんですよ。
一曲一曲に想いをこめてはいるけれど、
この日、この時間、このライブすべてで、ひとつの言葉、だったような。
これが「不思議な感覚」。


歌ごとの景色を描くことが、おざなりになっていた訳ではないし、
御本人も意識しては、いなかったのかもしれないし、
・・・勝手な思い込みだとは、思うのですが。



アンコールで歌われた三曲。
金子延子さんのカヴァー{時にまかせて}
そして、{スピード}{自問自答}
この日のすべてが、ここに、繋がっていたような気がして。



よくもわるくも、時間は、確実に流れていく。
その流れの中で、自分の気持ちも、望むと望まざるとにかかわらず、
形を変え、重さを変えていく。
その変わっていく気持ちも、間違いなく「自分」であるということ。
流れを、止めることはできないのだから、
その瞬間に、見える青空の無音と、巡っていく世界のノイズと、
とぎれとぎれに聞こえる、不安定な自分が奏でるメロディーに、
耳をすませ。
さあ、何が聞こえる?それを、どうしたい?
答えは外にはない。
答えなど、ないかもしれない。
それでも、
紡ぐことができるのは、自分というメロディーだけだ。
自分のメロディーを聞き取ろうとするならば、
無音だと思っていた空から、違うメロディーが聞こえてくるかもしれない。
ノイズだと思っていた世界から、言葉が聞こえるかもしれない。
惑わされることもあるだろう。
でも、それがヒントになることも、あるはずだ。
自分のメロディーを、見失わなければ。




あたしは、
あたし自身に問うことを、やめていたな、と、
この時初めて気づいたのだよね。
起きた事象に、すべてを投げ出して、
ただカナシミに溺れて、浸って、嘆いて・・・。
それをどう受け止めるべきか、判断すること、考えることを止めてしまっていた。


己に問うこと。
ずっと、子供の頃から、壁にぶち当たった時に、やっていたことだったのに。
・・・確かに、それが一番辛い作業ではあるのだけれどね。
結局は、自分が納得して、目を開く突破口を見つけるしか、ないのだ。



なんだか、言葉にしてしまうと、
受け取ったものが、うすっぺらくなってしまう気がして、
スネオさんに申し訳ないんですが・・・。



決して、声高に、強い言葉をおっしゃったりはしないんですよ。
スネオさんは。
安易にはげましたり、力づけたりしない。



カナシミを無くすことも、捨て去ることもできないのならば、
それと付き合っていくしかないことを、ご存じだからこそ、
その姿勢のままで、そこにいてくださることが、本当の強さだと思う。


その背中がね、どれだけ助けになっていることか。



言葉があちこちに飛んでしまいましたが、
この日、
スネオさんのうたに、
あたしはまた、きっかけをいただいたのです。



やっぱり、スネオさんには、かなわねえや。








なんだかまとまってませんけど、今日はここまで。